西部邁 自死について
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2022/01/17
西部邁は精神>肉体、という基本的な構図を持っている 精神のために死ぬ「人間」、肉体のために死ぬ「動物」
尊厳死という言葉は人間礼賛のヒューマニズムの考えに立っており、人間精神の尊厳について考えられていない
死が怖いのは、死が近づくにつれて押し寄せてくるであろう後悔の念のせいではないのか。あのときああしておけばよかった、これからこうすることも生きていればできないわけはないのに、などといった後悔の念が死の不安。恐怖として押し寄せてくる。人間は完壁に生きることはできないので、後悔の念を完全に振り払うことはできない。しかし、自分の人格の形がおおよそ定まるあたりから、後侮ができるだけ少なくてすむような生き方を選びつづけていれば、その生が自分の能力のおおよそ限界なのだと納得がいく。つまり死の間際における後侮が無駄なことだと了解できる。そして、後悔の念をできるだけ少なくするためには、自分の心身の最終点である死について、納得できる形で死を選びとること、それへ向けて自分の生を追い込んでいくことが必要である。換言すれば、自分の将来における納得的な死から自分の現在を眺めること、そして自分の現在の生にもとづかせて死をみつめること、つまり生の展望における現在(それには過去が内蔵されている)と未来のあいだの相互応答によって、つまり生と死の表裏一体化によって、後悔の念を封じることができる。(p60-61) どういう徳義を守るためにどう死ぬべきか、そのことを価値観の最高峰におけば、自分の生命から不道徳が生まれるという人間の最大の弱点を、あらかじめ封殺することができる。(p69) そして自死について語っているうち、語りは何ほどかはつねにパブリックなものであるから、その言葉のパブリックな連関のなかに自分の生=死がおかれることになる。つまり、自分の言葉に公的な責任を持たなければならなくなり、そこでようやく人間に死ぬ勇気が備わることになる。つまり価値についての公的な発言は、それへの有力な反証が挙がらないかぎり、みずからその実行を引き受けることを要請する。そうなのだと予定したときにはじめて、自分の生=死にインテグリティ(過不足のない筋道)が伴うことになり、それが死に甲斐および生き甲斐の根拠となるのである。(p70) 道徳は、さしあたり、人間の外部にある慣習として立ち現れてくる。しかしそれは、人間精神の内部にある、意義ある生を送って死にたいといういかんともしがたい価値への欲求が、歴史のなかで徐々に形を整えてきたものなのだ。そして「意義ある生」における最大の難解は、自分がどういうふうに死ぬのかという予期が現在の生の意義すら左右するという問題を、どう解決するかという点である。つまり道徳の中心には、死に方についての知恵がなければならない。その知恵を軽はずみにも虚無主義と誤認したために、生命尊重主義のほうがおびただしい虚無を招き寄せ、ついに知恵なき殺人に子供たちを追いやっているのである。(p173-174)